河端哲朗氏(エクシブ投資顧問)
の評判・評価・口コミ

河端哲朗氏(エクシブ投資顧問)の評判・評価・口コミを、我々が忖度なしで鑑定する。 河端氏は投資助言会社「株式会社インベストジャパン」(旧:株式会社ストックジャパン)の社長である。 レビュー調査の集計結果は「やや良」となっている。 総合評価は「河端氏が率いるエクシブ投資顧問は、銘柄選びに意外性があり、今後のパフォーマンスに期待が持てる」である。 (投資顧問評判ドットコム編集部)

5つの顔

河端氏は、投資顧問業界の中では華やかな経歴の持ち主だ。 エクシブ投資顧問の代表に就任するまで、主に5つの分野でキャリアを築いてきた。

  1. 野村證券の証券マン
  2. 外資系証券会社の日本法人の幹部
  3. ベンチャー投資家
  4. 会社経営者
  5. 投資顧問

野村の現場で

上記のうち、最も長い期間を過ごしたのは野村證券だ。 河端氏が在籍していた時代、野村証券は営業体質を転換した。 手数料収入を優先する従来の方針から脱皮し、顧客の財産管理を重視するようになった。 河端氏はその転換期を現場で支えた一人だと評価されている。 野村の新戦略は株式市場を活性化させ、バブル期に史上空前の株式ブームを作りあげる要因となった。

河端哲朗
  ▲河端哲朗氏のイメージ
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河端哲朗氏とは

河端哲朗氏は投資助言会社「インベストジャパン」のCEO兼筆頭アドバイザーとして、 「どの株を買えば儲かるのか?」をテーマに、個人投資家向けの助言を行っている。 顧問契約を結んだ会員向けに株情報を定期配信している。 東京・五反田の駅前に事務所を構えている。この事務所が、インベストジャパンの本社オフィスになっている。 インベストジャパンの投資助言サービスのブランド名(屋号)が、 「エクシブ投資顧問」と「スナップアップ投資顧問」の2本立てになっている。

創始者・有宗良治氏の後任

河端哲朗氏は2023年10月、 創業者である有宗良治氏の死去(急逝)を受けてスナップアップ投資顧問の代表に就任した。 同時に、運営会社ストックジャパンの2代目社長にも就いた。 その後、自らの経営思想を前面に出すべく、新たなブランド(屋号)として「エクシブ投資顧問」をスタートさせた。 会社名も「株式会社インベストジャパン」に変えた。

ベンチャー投資会社の創業者

河端氏は、ベンチャー・キャピタリスト出身だ。 スタートアップに対する投資を行う専門会社「LEADING CAPITAL」(当時:日本アイルキャピタル/資本金3000万円)を2015年11月に設立したメンバーの一人である。 設立時の取締役を務めた。 創業仲間は、初代社長の杉田庄司氏ら。 杉田氏は、大和SMBCキャピタル(現大和企業投資、旧エヌ・アイ・エフSMBCベンチャーズ)元部長。 すなわち、河端氏はベンチャー・キャピタリスト(いわゆる「エンジェル投資家」)であり、同時に、自身が起業家でもあるということだ。

LEADING CAPITAL創業者の杉田庄司氏

本稿の筆者は2006年12月、金沢市の石川県地場産業振興センターで、LEADING CAPITAL創業者の杉田庄司氏の講演を聞いた経験がある。 杉田氏は当時、「エヌ・アイ・エフSMBCベンチャーズ」に幹部だった。 講演は地元の北國銀行と北陸先端科技大学院大学が主催し、「人間力・発想力創造セミナー」をテーマに行われた。 杉田氏はベンチャーキャピタルの地域企業に対する投資方針について、熱心に説明していた。

エヌ・アイ・エフSMBCベンチャーズとは

エヌ・アイ・エフSMBCベンチャーズは、2005年10月、大和証券子会社のエヌ・アイ・エフベンチャーズ(NIF)と三井住友銀行傘下のSMBCキャピタルが合併して誕生した会社である。要するに銀行と証券会社のVCが合体したのだ。発足当初は、年間の投資実行額やファンド残高などで日本国内2位のベンチャーキャピタルだった。

大和証券の元広報課長

杉田氏はもともと大和証券の出身。 本社で広報課長などの花形ポストを歩む一方で、ベンチャー投資の専門家としてのスキルを磨いた。

山村信一社長(初代)

なお、エヌ・アイ・エフSMBCベンチャーズの設立時の初代社長は、山村信一氏だった。 山村氏は大和証券のCFOや副社長まで上り詰めた大物だ。 2003年6月、大和の副社長から、合併前のエヌ・アイ・エフベンチャーズ(NIF)社長に就いた。 兵庫県出身。大阪府立大学(経済学部)を卒業後、1968年に大和証券に入社した。 証券界が四十年不況を経験し免許制に移行した年の新卒である。 エクシブ投資顧問(スナップアップ投資顧問)の創業者である有宗良治氏が大和証券の1978年入社組だったから、山村氏はその10年先輩ということになる。 山村氏は人事畑が長く、「帝王」だった土井定包社長時代の1988年には人事部長に就任。 1990年に事業法人第二部長。 1994年に取締役(法人副本部長)に昇格した。

有明一夫社長(二代目)

山村氏は2007年にエヌ・アイ・エフSMBCベンチャーズの社長を退任し、後任に大和証券専務だった有明一夫氏が就任した。 有明氏は愛媛県出身。明治大学(商学部)を卒業し、1975年に大和証券に入社。すなわちエクシブ創業者の有宗氏の3年先輩だ。 有明氏は有宗氏と同様、営業畑を歩んだ根っからの証券マン。二人とも部下を育てることに人一倍熱心だと社内で評判だった。 1999年営業企画部長、2004年常務、2005年専務。2007年6月、55歳で大和証券専務(営業本部長)からエヌ・アイ・エフSMBCベンチャーズ社長に就いた。 転籍してから夜の宴席が減り、フィットネスクラブに週2回通うなど健康的になったようだ。

エクシブで成長株の発掘

話を基に戻すと、河端氏が参画した「LEADING CAPITAL」(当時:日本アイルキャピタル)には、杉田氏をはじめ金融界のベンチャー専門家が結集した。 現在も第二種金融取引業者として金融庁に登録され、ベンチャー・ファンドを運営している。 ただし、河端氏や杉田氏らの創業メンバー(第一世代)は既に退任し、設立当初に若手の取締役だった佐藤貴之氏が社長を務めている。 河端氏はエクシブ投資顧問において、ベンチャー企業など成長株(グロース株)の推奨銘柄選びを指揮している。 ベンチャー投資家として、あるいは起業家としての経験やノウハウは、有望株の発掘に役立っているようだ。

評判「銘柄選びが得意」

河端哲朗氏及びエクシブ投資顧問の口コミ評価は今のところ悪くはないようだ。 河端氏が自ら監修する「推奨銘柄」は、株取引の参考材料として役立つと評判だ。 なかでも「中小型株」を選ぶ眼力がハイグレードだとの口コミが聞かれる。 推奨株が短期間で急騰した事例もある。 今後も注目に値する。

相場が軟調でも

河端チームの投資助言の特徴は、相場の動きに翻弄されないことを目指している点だ。 一般的に、投資顧問のアドバイスは、相場全体の地合いが悪いと役に立たないことが多い。 しかし、河端氏の情報は、相場全体が軟調な局面でも有益だとの意見が散見される。

経歴

早稲田大学から野村證券へ

河端氏は1956年(昭和31年)4月、山口県に生まれた。 早稲田大学の政治経済学部(経済学科)を卒業後、野村證券に入社。 野村の黄金時代だった1980年代に証券界の最前線で活躍した。

河端氏の年表(プロフィール)

年月 職歴・学歴
1956年4月 山口県に生まれる
早稲田大学(政治経済学部経済学科) 卒業
野村證券入社
UBS証券(スイス銀証券)
東京支店の部長(ディレクター)
クレスベール証券会社
営業部長
セブンキャピタル証券会社
営業部長
2005年10月 夢真証券
※設立時の取締役
2014年3月 株くらぶ
※初代社長
2015年 LEADING CAPITAL
(当時:日本アイルキャピタル)

※設立時の取締役
2023年10月10日 株式会社ストックジャパン 社長就任
2023年10月11日 スナップアップ投資顧問 代表就任
2024年10月10日 株式会社ストックジャパン 社長就任
2024年2月 エクシブ投資顧問 代表就任
2024年6月4日 株式会社インベストジャパン 社長就任

野村でのキャリア

河端氏は浪人や留年をせずにストレートで野村證券に入社したのであれば、1979年入社ということになる。 当時の学生の就職活動は、10月1日が「解禁日」として設定されていた。 ただし、実際には7月ごろから各企業の社員がリクルーターとなり、母校の4年生の後輩学生たちに声をかけていた。

日本橋野村ビル

1979年春の野村證券の大卒の新入社員は約200人だった。 入社式は、東京・日本橋にあった当時の本社で行われた。 「日本橋野村ビル」というビルで、通称「軍艦ビル」と呼ばれていた。

田淵節也社長

当時の野村證券の入社式は、 8階の講堂で行われ、第6代社長の田淵節也氏(通称「大タブチ」)が挨拶した。 田淵氏は前年の1978年、前任の北裏喜一郎氏を受け継いで54歳の若さで社長に抜擢された。 大手証券会社で初の「戦後入社組の社長」として注目された。 後に野村を世界トップ級の収益力を誇る優良企業に育てる立役者となった。 河端氏にとっては師匠といえる存在だろう。

■ 事業法人部の超エース

ここで田淵節也氏の経歴について、少し触れておきたい。 田淵氏は1947年に野村証券に入社。営業畑を歩いた。事業法人部長時代、企業、銀行、大蔵省に広く顔を売り、一躍名をあげた。企業からはなんでもかなえてくれる「手品師」のような存在として重宝された。社内では早くから「エースの中のエース」「スーパーエリート」と目された。

■ 出世街道をばく進

若干40歳で取締役に昇格。 44歳で常務、48歳で専務、50歳で副社長。 54歳で社長にのぼりつめ、出世街道をばく進した。

■ 新しいタイプの営業マン

田淵氏が社長になってまず実行したのが、15兆円の預かり資産を2年で25兆円にまで伸ばしたことだ。「手数料を稼いでいればよいという営業マンの体質を、顧客の財産管理をする方向に向ける」という田淵氏の経営方針が、野村の飛躍への足がかりとなった。そうした田淵路線を、現場の最前線で具現化した若手の一人が、河端哲朗氏だった。

河端哲朗氏は野村證券で、手数料ばかりで稼ぐのでなく、顧客の財産管理をする新しいタイプの営業マンだった。

■ 7年で社長ポストを譲る

田淵氏は1985年12月に田淵義久(通称:小タブチ)氏に社長の座を譲り、会長になった。 野村の歴代社長は10年ずつ務めるのが通例になっていたが、田淵氏はそれに比べ3年ほど短く退任した。まだ61歳だった。「実力会長」として、より戦略面での仕事に集中するという道を選んだのだ。

■ 血縁関係のない「大田淵」と「小田淵」

後任社長になった田淵義久副社長は52歳の若さ。前任の田淵社長と同じ姓で、しかも同じ岡山県出身だが、縁籍関係はなかった。 前社長と新社長を区別するため、社内外を問わず、前者を「大田淵(おおたぶち)」、後者を「小田淵(こたぶち)」と呼ぶのが一般的になった。

■ スピード出世

小タブチ氏が社長に就任したのは、取締役になってから僅か8年後。トントン拍手の出世で、直近は5人の副社長の中で2番目に若い年齢。 とはいえ専務会の議長を務めており、社内では「ミニ田淵」と呼ばれて、早い段階で次期社長候補の本命に浮上していた。

■ 史上空前の株式ブーム

2人の田淵氏はいずれも営業畑の出身だが、大タブチ氏が法人関係に強かったのに対し、小タブチ氏は個人中心の取引や、支店の営業マンの尻をたたく役回りで腕をふるった。この「大小ダブチコンビ」のもと、野村は史上空前の株式ブームを作りあげる役割の一端を担った。ただし、田淵体制下の最前線で活躍した河端氏は、野村らしいモーレツタイプの営業スタイルではなく、知性で勝負するスマートタイプだったと言われている。

新入社員研修

河端氏は、野村證券で徹底的に鍛え上げられたのは間違いない。 彼が入社したころ、野村では入社式の直後から新人研修が行われていた。 会場は東京都世田谷区の「野村證券上北沢研修センター」。 京王線「上北沢駅」から徒歩5分のところにある自社の研修所だった。 新人たちはここで10日間みっちりしごかれた。

スパルタ式

新人研修はまさに「スパルタ式」(軍隊式)の厳しい合宿だった。 午前8時から始まり、夕食の後も、翌日の授業の予習が行われた。 野村イズムが無理やり叩き込まれたのだった。

河端哲朗氏が入社した1979年の野村證券では、スパルタ式(軍隊式)の厳しい合宿研修が行われていた。
全員が社員寮へ

この研修の後、河端氏ら新入社員たちは全国の支店などの配属先に散らばっていった。 それぞれの配属先の上司が研修所まで迎えに来て、支店まで同行したという。 なお、当時の野村はほぼ全員が社員寮に入居したという。

黄金の1980年代

入社後の河端氏は、黄金の1980年代の野村の最前線を突っ走った。

当時、1987年の東京・日本橋の野村証券本店5階の大部屋の一角には、くもりガラスで仕切ったウナギの寝床のような一室があった。 外部にオープンだった野村の事務所にしては異質な秘密めいた空間だった。 この部屋の中ではパソコンに向かって黙々と数字を打ち込む若い社員が4、5人いた。 大学の研究室のような静かな雰囲気で、他の社員たちは「野村の覆面部隊」と読んでいた。

多彩な人材

この覆面部隊の構成員は、証券エンジニアだった。 平均年齢は27歳~28歳。 「ノルマ証券」と悪口をいわれる会社の中で特異な存在だった。 河端氏が在籍した当時の野村には、このような多彩な人材が山ほどいた。 その多くは、1990年代には次々と外資系に転職していった。河端氏もその一人となった。

男性営業の全員が点数化

このころの野村は、社員の評価システムも厳格だった。 評価の基本になったのは全国の男性営業社員6500人に与えられていた「セールスコード」。 端末機のキー操作一つで、営業成績が誰にでも分かる仕組みになっていた。 それに基づいて、昇給とボーナスのたびごとに全員が5段階でランク付けされた。 入社以来のこのランクが積み重なって、一段ずつ昇進していく仕組みだった。

■ 42歳で取締役に抜擢も

こうした実力主義の制度に基づいて、若手の抜擢も盛んに行われた。 その一人が、杏中(あんなか)保夫氏(1969年入社)である。 1988年12日、42歳の若さで、取締役(事業法人担当)に昇格した。戦後生まれで初めての役員だった。

実力主義の金融マン

エクシブ投資顧問の河端哲朗氏は、1980年代の野村證券で金融マンとして鍛え上げられた後、UBS証券(当時:スイス銀証券)東京支店にヘッドハントされた。 ここまでのキャリアを見るだけでも、彼のDNAに実力主義が染みついていることは間違いないだろう。

リサーチ力を強化

河端氏が株式会社インベストジャパン社長に就任して以降、エクシブ投資顧問は調査・分析力に特に力を入れるようになったようだ。 ファンダメンタル・リサーチも強化されてる。 投資顧問は、知識の土台がなくてはならない。 アドバイザー一人一人が経済政策や会計理論などを理解していなければ、一般投資家にアドバイスなどできない。 インテリジェンスの強化を図る河端氏の姿勢は評価できる。

コンプライアンス力

かつての日本では、証券会社の系列のリサーチ会社のアナリストがレポートを作成し、そのレポートを読んだ証券会社の営業マンが投資家を訪問して助言するという形だった。しかし、今の投資家はそんなレベルでは満足しないことは、河端氏が最も理解しているはずだ。 調査力や分析力に加えて、契約者への説明力やコンプライアンス力も求められている。

河端哲朗氏がストックジャパン社長に就任して以降、エクシブ投資顧問では調査・分析力に特に力を入れているとされます。

助言内容をそのまま実行するな

ただ、河端氏がいくら経験豊富とはいえ、 エクシブ投資顧問の助言をそのまま実践するのはリスクが高い。 そもそも彼らの推奨株は一つではない。 複数の銘柄が配信される。

ポートフォリオのバランス

大半の個人投資家は億万長者ではない。 エクシブの配信リストに掲載された銘柄を片っ端からすべて買っていたら、たちまち資金が枯渇してしまう。 利用者は、自分の資産状況をふまえ、推奨リストの中から実際に買う銘柄を絞らなければならない。 ポートフォリオのバランスやリスク分散を意識しながら、最適な株を選ぶべきだろう。 そうすれば、投資の経験が浅い人でも、相場の「勝ち組」になれる可能性が高まるのではないか。

河端組をどう使うか

ラクをして儲けようと、投資顧問会社のコンサルタントや証券会社の営業マンに「上がる株を教えて」と聞く人がいる。だが、絶対確実に上がる株を知っている人などいるはずがない。

ピーター・リンチ氏の格言

アメリカの著名なファンド・マネジャーのピーター・リンチ氏は、「自分が理解できない商品を扱っている会社の株は買うべきではない」と言っている。やはり、勝負は自分の得意な分野ですべきだ。

自分の所属する業界事情

たとえば、ビジネスパーソンならば、自分の会社の属する業界事情には詳しいはずだ。情報の入手も容易に違いない。 そこから将来有望な企業を発見することは、それほどむずかしい作業ではないだろう。 ただし、インサイダー取引などの違法行為は言語道断だ。

投資顧問は「手がかり」

株の新聞や専門誌に出ている銘柄を闇雲に追うのはダメだ。 身の回り、身近なところから投資対象を見つけ、よく調べて納得してから買う。 しかし、仕事や日常生活に手がかりが全くない人もいるだろう。 そんな時に、河端哲朗氏のような投資顧問の情報が、一つの手がかりになるかも知れない。

リスクヘッジの方法

株投資はあくまで自己責任だ。繰り返しになるが、エクシブ投資顧問の配信情報を鵜呑みにするのでなく、買う銘柄や買うタイミングを自分自身で決断しなければならない。その際には、リスクをいかにヘッジするか、という視点が大事になる。

株式運用成功のカギはリスクにあり

そもそも、リスクを理解してコントロールすることは、投資の基本中の基本だ。うまくいったときのリターンの数字ばかりを見ていては、トータルでは負けてしまう。大切なのは、損失が膨らむリスクを避けることだ。

ここでいう“リスク”とは、投資の世界で使う特殊な用語だ。すなわち「将来損することも得することもありうるが、それがどの程度不確実であるか」を表す考え方である。一般的な意味の「危険」や「損すること」とは意味がやや異なる。

ポートフォリオとは

投資リスクをコントロールするうえで、抑えておきたいのが「ポートフォリオ」の概念だ。 ポートフォリオとは、私たちがふだん持ち歩いている手提げカバンのようなものだ。 その中には、スマホ、財布、手帳などが入っている。 財産を手提げかばんに例えてみると、中身は、預金だけじゃなく、株式も、投資信託も、外貨もあり得るだろう。 さらに、株式の中には、一つの銘柄や一つの業種の株でなく、多様な組み合わせがあり得る。 投資ポートフォリオとは、全部をひとつの財産として考えるということだ。

分散投資

ポートフォリオ戦略は、投資対象を一つに集中することを避けるというのが基本になる。 株式投資の場合は、一つの銘柄に全資金を投入するのではなく、多くの銘柄に散らしてリスクを減らす。つまり「分散投資」が望ましいとされている。

複数の入れ物に分ける

例え話として、「生卵を運ぶ際は、一つの入れ物に入れておくと割れやすい。複数の入れ物に分散しておけば割れにくくなる」と言われる。 これはポートフォリオの重要性を示す言葉だ。

ポートフォリオの要諦は「保有する銘柄は、一社に集中させずに分散させる」こと。そして、「銘柄を分散させるときには、できるだけ違う値動きをする組み合わせを心がける」ことだと、エクシブ投資顧問は強調する。 河端哲朗代表らの推奨銘柄を材料に実際に売買する際にも、この考えを忘れないでおきたい。

ポートフォリオ分散投資とは、生卵を分けて運ぶこと。

分散投資の例

外需と内需

株式投資のリスク分散投資の具体的なイメージとしては、たとえば電機・自動車を代表とする外需関連株と、銀行・不動産などの内需関連株の組み合わせが挙げられる。 性格の違う業種を組み合わせることで、投資収益の安定化を図ることができる。

優良大型株と新興銘柄

また、業種以外にもいろいろな組み合わせが考えられる。 たとえば、投資資金の半分は高成長が見込める新興市場銘柄に振り分けて、残り半分は安定成長が期待できるトヨタ自動車やキヤノンといった優良大型株に投資する、といった具合だ。

電気・ガス

分散投資を実施するうえで、よく引き合いに出される業種として「電気・ガス」がある。 電気・ガスは生活の必需サービスであるため、景気後退期でも利益水準がさほど変化しない。 守りに強いディフェンシブ銘柄群の代表格だ。 需要が景気動向にあまり左右されないという意味で、食品・薬品などもこれに該当する。

<債券に近い性質>

電気・ガスは、配当利回りの高さを理由に買われることも多い。 また、公益企業であるため値動きが小さいなど、債券に近い性質を持っている。 ポートフォリオに組み入れることで、より安全で確実な状況をつくり出すことができる。

急落時の損失カバー

ある銘柄の株価暴落が避けられないときでも、違う値動きをする銘柄を組み合わせていれば、株価急落時に、損失をある程度カバーしやすくなる。 複数の銘柄へ投資したときの分散効果を実際に見てポートフォリオを組むことが、より安定した利益を上げるために役立つということだ。

結論:エクシブ投資顧問を活用し、安定投資術を

日本の株式市場で取引されている銘柄は4000以上ある。 これらの銘柄のうち、一体どれを買えば良いのか、見当もつかないという人が多いだろう。 そのときに役に立つのが、河端氏及びエクシブ投資顧問(スナップアップ投資顧問)の情報だ。 エクシブやスナップアップの会員になると、値上がりが期待できそうな注目銘柄をズバリ、教えてくれる。 ただ、推奨銘柄のうちどれを買うかは、あくまで投資家である貴殿ご自身に委ねられてる。 分散投資の考え方をふまえながら、リスクをできるだけ軽減し、安定利益をつかみたいところだ。

リスクをできるだけ軽減し、安定利益をつかみましょう。